経験代謝について 経験の客観視
経験代謝がわかりにくいのは、経験の客観視という点だと思います。
私はここがなかなか理解できません。
経験の再現を促すことにより、相談者が経験を語っていくなかで、キャリアコンサルタントは相談者の自己概念の影を捉えて、それを返してあげることで、相談者は自問自答する。経験の客観視は、この自問自答によって起きるようです。
やだなぁと感じている同僚について、上司と話している。やだなぁと感じる出来事を話していると、上司がどうも合点がいかない表情。「それって、おまえのことじゃないの?」と返され、なんでそんなこと言われるのか、一瞬戸惑い、ただ、そう言われてみると、自分もその同僚と似たようなことしているなあと思い起こす。自分の中にやだなぁと感じる同僚と同じ一面があることに思い至る。
「頭を冷やす」ということなのかもしれませんが、今書いた一場面が経験の客観視だということなのか?
だとすると、私がつまづいているのは、客観視という言葉なのだと思います。
経験代謝では、当事者意識が強調されます。
最初は他人事として語られる経験を自分ごととして捉えるようになる。この他人事から自分ごとへの変化のなかで、経験の客観視が起きる。そこを通り抜け、意味の出現につながる、ということのようです。
ただ、そこでは、説明されていない何かがあるようでもどかしさを感じるのです。
私の理解が不足しているのかもしれませんが、経験を自分ごととして捉えるとは、経験に映される自己を見ることのはずです。それは客観視することなのでしょうか?
経験が映し出す自己は、見たくない自分の場合もあるのです。その場合、精神分析でいう防衛が働くこともある。防衛への対処はここでは手に余るので踏み込むのはやめておきます。要は、経験の再現によって映し出される自己を見ているのも自己ではないか?
ここで、経験代謝の目的に立ち返ると、経験代謝が目指すところは、自己概念の成長です。経験の再現によって、経験が映し出す自己、そしてそれを見る自己という分裂が生じる、それを経験の客観視と呼ぶのかなぁ?
さらに、その分裂から統合へ向かう、つまり、映し出された自己を取り込むことにより、自己が成長していくということが想定されている?
たしかに、ピアジェの同化と調節が、経験代謝の説明で引用されているのです。経験代謝は調節を敷衍しているのは確か。また、見方を変えると、それはユングの心理療法と同様、弁証法的なプロセスだとも言えそうです。
客観視という言葉につまづくのは、客観視という言葉が他人事という言葉とつながっているように私の辞書に載っているからなのかもしれません。ただ、前述のように、経験代謝の説明では、それは、当事者意識によって作動するのです。
ピアジェが援用されているのは経験の客観視がまさに認知過程を踏まえていることを示唆しています。
なんかまどろっこしい記事になりました。
ただ、経験代謝を理解するには、このように、ひとつひとつ、紐解いていく作業が必要ではないかと思います。
経験代謝の説明にクリティカルシンキングが言われているのもそういうことなんではないでしょうか?