複業を考える
今日から年末年始休暇に入りました。
が、
残務処理で会社に向かうところです。
さて。
今年年初に立てていた目標は、
・キャリアコンサルタント資格取得
・産業組織心理学会会員になる
・複業を始める
こういう目標を立てていました。
複業を始めるというのは、着手はしたもののまだまだ本格化していません。
会社の許可は取りましたが、実際、仕事をするまでには至っていません。
他の2つは目標としてはっきりしていますが、複業を始めるというのはあまり具体的にしていませんでした。
時間が見つけられる範囲で何かやる、ぐらいでしたので、まあ、よしとします。
来年はアクションプランを立ててみたいと思います。
自分のリソースを使って、お客様にどのようなバリューをどういう形で提供するのか。
複業として考えているのは、
・日本FP協会の紹介を通した業務受託
・JCDAからの紹介を通した業務受託
・電子書籍を出す
といったことです。
WEB相談は、すでにあるサービスに登録する方法と自分でサイトを立ち上げる方法を考えています。
ただ、では、どのように進めていくかはまだ考えていません。
来年はいろいろと試行錯誤していく年にしていきたいと思います。
みんなで合格☆キャリアコンサルタント試験でこのブログを紹介いただきました
とても嬉しいことで、光栄にも、みんなで合格☆キャリアコンサルタント試験のブログで、過去記事を紹介いただきました。
この試験の受験生の中ではとても有名なだけに、そこで紹介されたことは書いて良かったと名利につきます。
面談時の先入観について
クライエントの話を聞く時に、先入観を持つことは禁物と言われます。確かに、経験上、クライエントの話を聞いていて、ああ、こういう話かとキャリアコンサルタントが結論づけてしまうと、相談はそこで止まってしまいます。クライエントが話し続けていようが、キャリアコンサルタントの見立ては、キャリアコンサルタントに結論づけた範囲に限られてしまうからです。これではカウンセリングになりません。
ただ一方で、クライエントの話を聞いているとキャリアコンサルタントにはいろいろなことが思い浮かび、感じます。さまざまな考えが浮かぶ、感じることはキャリアコンサルタントにとって非常に大事なことだと思います、さらに言えば、クライエントの置かれている立場を広く、大局的な観点から見ることがキャリアコンサルタントにとっても大事なことだと思います。
ポイントは、キャリアコンサルタントが自分の考えや感じたことを正しいと決めつけないことなのでしょう。
クライエントの話だけでなく、クライエントの振る舞いや身なり、声の調子なども見て、クライエントの普段の暮らしぶりをひとつひとつ想像しながら、その暮らしぶりをクライエントはどう感じているのかにも思いを馳せつつ、キャリアコンサルタントは自分のそうした想像をひとつひとつクライエントに確認していく。確認しながら、自分の想像を絶えず修正していく。
こうした作業のなかで、キャリアコンサルタントの先入観も絶えず修正されていきます。クライエントの話に違和感を持つのは、そこでキャリアコンサルタントがもっている常識の正しさも問いに付されているのです。その時、自分の常識にこだわるのか、そうでないのか。
謙虚であることとは、キャリアコンサルタントが自分の常識にこだわらない、その矛盾を素直に受け止め、柔軟に修正していく姿勢ではないか。
JCDAのピアトレーニング
先週末、JCDAのピアトレーニングに参加してきました。
経験代謝のロープレを行う場として、ほぼ毎月開催されています。私は今回で2回目の参加になります。
資格を取ったあと、なかなか、トレーニングの場を他では見つけにくいため、こういった場への参加は貴重です。
CDA資格の更新にはポイントを稼がないといけないため、参加には更新のためという目的もありますけど。
ちなみに、キャリアコンサルタントとCDAの資格更新にはそれぞれに更新要件を満たす必要があります。ときに、JCDAの研修の中にはCDAだけでなく、キャリアコンサルタントの更新ポイントにもつながるものがあるにはあるのですが、今回参加したピアトレーニングはキャリアコンサルタントの更新ポイントにはなりません。
今回、ロープレをやっていて、あらためて、経験代謝はアドラー心理学に近いなあと感じました。
ピアトレーニングには、ピアファシリテーターの方が一人つき、その方から最初、経験代謝の説明をしていただくのですが、今回、事例として、ファシリテーターご自身のエピソードが話されました。
同僚の退職をきっかけに、やりたくない仕事をやるはめになったというお話で、CDAの問いかけにより経験代謝からご自身の仕事に求める意味を見つけたというストーリーでした。
そのお話を聞いていて、そこで見いだされた意味って、その方のライフスタイルではないかと感じたのです。
CDAの問いかけにより、やりたい仕事、やりたくない仕事について応答を重ねるうちに、ご自身が仕事に求めるこだわりが現れてきた。こだわり、価値観と言われていましたが、それはその人の生き方ではないかと思ったのです。
おそらく、その人の他のエピソードをお聞きすると、より、その人の生き方が鮮明に見えてくるのではないか。
こうした回想を重ねながら、見えてくるこだわりや価値観、意味は、その人の人生の選択に関わり、その人の生き方を左右してきたと推測できます。
こうしたプロセスを経験代謝では、経験の再現、意味の出現、意味の実現というプロセスでまとめています。そのプロセスは、アドラー心理学のライフスタイル分析に近いし、同じことが経験代謝とアドラー心理学では起きているように思います。
経験をどう捉えているのかはひとそれぞれ、という考え方は経験代謝にもアドラー心理学にも共通しています。
アドラー心理学を学ぶことで、キャリアカウンセリングにより幅や奥行きが広がるように思います。
就労支援の現場
キャリアコンサルタントの勉強会に参加してきました。
私以外の参加者の方は就労支援の現場に立たれている方たちなので、ふだん、まったく違う仕事をしている私にとってはとても学びの多い機会です。
4回ほど参加させていただいているのですが、いつもたくさんの刺激をいただいています。
人事に近い業界で仕事をして、自分自身マネジメントの立場であり、また、私自身もキャリアコンサルタントでもあるため、率直に質問したり、発言したりはさせていただいていますが、やはり、現場の方の生のお話は、とても興味深いです。
お話を聞いていて今日つくづく感じたのは、対人支援の個別性。相談に来られる方は一人ひとり違うということ。そこに皆さん、心血注いでいるのだということ。
ラポール、信頼形成、共感は共通する要素ではあるけれど、その展開の仕方は参加者の方々、お一人お一人異なるし、また、同じ人でも相談に来られる方によって異なるアプローチをされています。
そこには、現場で磨かれた肌感が大きく働いているのだろうなと思います。経験の積み重ねで、作り上げられてきたんだろうな。
お話を聞きながら、自分の経験や知識と結びつきを見つけられた瞬間を感じることも多く、知識に拡がりを感じたときは嬉しいですね。
立場も仕事も経験も考えも違いながら、ある種、受容されている雰囲気がそこにはあり、相互に刺激されながら、お互いの話に関心が広がっていく。それは楽しい時間です。
それにしても、キャリアコンサルタントとして食っていくのは、現実、厳しいのだなあ。
この状況を変えていくために、何ができるのかもキャリアコンサルタントにとっては重要なテーマだとつくづく思います。
現代のアドラー派サイコセラピー
Adlerian Psychotherapy: An Advanced Approach to Individual Psychology (Advancing Theory in Therapy)
- 作者: Ursula E. Oberst,Alan E. Stewart
- 出版社/メーカー: Routledge
- 発売日: 2002/05/12
- メディア: ペーパーバック
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アドラー心理学が、フロイトやユングほどに取り上げられてこなかったのはなぜか?
この”Adlerian Psychotherapy “では、共同体感覚、器官劣等性など特有の概念はあるものの、それはアドラーが自身の心理学を可能なかぎり、日常語で語っていたことを理由の一つに挙げられています。そのために、あまりにも早く、現代心理学のなかに吸収されたのだと。
この本の試みは、しかし、アドラー派のサイコセラピーを、現代の心理療法の統合しようという流れ、社会構成主義、ポストモダニティといった潮流に置き直し、その有効性を示そうとしているものです。
まだ読み始めたばかりですが、
アドラーの器官劣等性と補償と関連づけてセリエのストレス理論や認知行動療法で扱われる生物ー心理ー社会モデルに触れられていることに非常に興味がわきました。
課題の分離について
ひとは何に突き動かされるのか?
その問いに、フロイトは性的欲動と答え、アドラーは優越への努力と答えました。
何かと対比される事の多いアドラーとフロイトですが、動因という問いを共有していたことは確かです。優越への努力とは、明日の自分は今日の自分より成長していたい、そのために今行う努力のことです。
で、アドラーは、優越への努力が向かう方向は共同体感覚に大きく左右されるといい、神経症患者、犯罪者、性的倒錯者などは共通して自分のためだけに努力するか、または、そうした努力を避けると指摘しました。このようなひとは共同体感覚に欠けているひとたちです。
共同体感覚を持つひとは、社会の利益を優先して、そのために努力します。アドラーは、共同体感覚は正常な発達の基準だとも言っています。
ただ、その正常さが何なのかは、そのひとが所属する共同体によっても異なります。
お国のために、神のために、というのも共同体の論理です。「共同体」という言葉には、20世紀の思想的な危険な香りが拭えません。
これは翻訳の問題なのかもしれません。
もともと、共同体感覚はドイツ語で、英語では、social feeling、social interestという言葉で置き換えられています。
ひとの関心が自分だけに向かうのか、目の前の他人も含めた社会全体へ向かうのか、それによって優越への努力は変わってくるというのは理解できます。
ただ、一方で、世界はそのひとが認知した世界であり、そのひとが世界をどのように見ているのかによります。つまり、社会はどうあるべきなのかによっても社会的関心の向かう先は異なるのではないか?
共同体といっても、さまざまな構成員、さまざまな理念、それがより大きな共同体の中で果たす機能や役割があります。
家族、学校、会社、地域、国、民族、宗教など、さまざまな共同体が存在します。さらに、ふつう、個人が所属する共同体は1つだけというのはありえません。つまり、共同体間の葛藤もあれば、個人の中でも、諸々の共同体についての葛藤があるのです。個人として、このような葛藤をどのように乗り越えていけばいいのでしょう?
アドラーによれば、そうした葛藤こそ、対人関係から生じたものも考えられそうです。
ひとの悩みは対人関係から生じる。
アドラーがそのように言うのには、個人は個人として1つの統合された存在だという前提があります。
共同体から生じる葛藤も、私が抱える葛藤と他の人の葛藤は異なるのです。ゲシュタルト心理学でも、私は私、あなたはあなたです。
ここで、課題の分離の意味がはっきりするのではないかと思います。
私は私、だからあなたとは関係がないと言うことではありません。それでは社会的関心が欠如していることにしかなりません。
私の課題は私のものであり、あなたのものではないということを認めつつ、それを共有できる課題としていっしょに解いていこう。それが課題の分離ということではないのか。
そう考えると、上記の共同体の危険な香りは、個人の統合性を除外した考えだとわかります。そこでは課題の分離はありません。むしろ、私はあなた、あなたは私と同一視することから生じるのです。これは支配と服従の論理です。
共同体感覚、社会的関心がアドラー心理学の核となる考えであることは確かです。ただ、個人の統合性を差し引いてしまうと、容易に共同体の罠にはまってしまうことも明らかです。これは政治的な問題であり、まさに生き方の問題だと感じます。