キャリアコンサルタント学習ノート

キャリアコンサルタントの学習記録

課題の分離について

ひとは何に突き動かされるのか?

その問いに、フロイトは性的欲動と答え、アドラーは優越への努力と答えました。

何かと対比される事の多いアドラーフロイトですが、動因という問いを共有していたことは確かです。優越への努力とは、明日の自分は今日の自分より成長していたい、そのために今行う努力のことです。


で、アドラーは、優越への努力が向かう方向は共同体感覚に大きく左右されるといい、神経症患者、犯罪者、性的倒錯者などは共通して自分のためだけに努力するか、または、そうした努力を避けると指摘しました。このようなひとは共同体感覚に欠けているひとたちです。

共同体感覚を持つひとは、社会の利益を優先して、そのために努力します。アドラーは、共同体感覚は正常な発達の基準だとも言っています。

ただ、その正常さが何なのかは、そのひとが所属する共同体によっても異なります。


お国のために、神のために、というのも共同体の論理です。「共同体」という言葉には、20世紀の思想的な危険な香りが拭えません。

これは翻訳の問題なのかもしれません。

もともと、共同体感覚はドイツ語で、英語では、social feeling、social interestという言葉で置き換えられています。

ひとの関心が自分だけに向かうのか、目の前の他人も含めた社会全体へ向かうのか、それによって優越への努力は変わってくるというのは理解できます。

ただ、一方で、世界はそのひとが認知した世界であり、そのひとが世界をどのように見ているのかによります。つまり、社会はどうあるべきなのかによっても社会的関心の向かう先は異なるのではないか?

共同体といっても、さまざまな構成員、さまざまな理念、それがより大きな共同体の中で果たす機能や役割があります。

家族、学校、会社、地域、国、民族、宗教など、さまざまな共同体が存在します。さらに、ふつう、個人が所属する共同体は1つだけというのはありえません。つまり、共同体間の葛藤もあれば、個人の中でも、諸々の共同体についての葛藤があるのです。個人として、このような葛藤をどのように乗り越えていけばいいのでしょう?

アドラーによれば、そうした葛藤こそ、対人関係から生じたものも考えられそうです。

ひとの悩みは対人関係から生じる。

アドラーがそのように言うのには、個人は個人として1つの統合された存在だという前提があります。

共同体から生じる葛藤も、私が抱える葛藤と他の人の葛藤は異なるのです。ゲシュタルト心理学でも、私は私、あなたはあなたです。

ここで、課題の分離の意味がはっきりするのではないかと思います。

私は私、だからあなたとは関係がないと言うことではありません。それでは社会的関心が欠如していることにしかなりません。

私の課題は私のものであり、あなたのものではないということを認めつつ、それを共有できる課題としていっしょに解いていこう。それが課題の分離ということではないのか。


そう考えると、上記の共同体の危険な香りは、個人の統合性を除外した考えだとわかります。そこでは課題の分離はありません。むしろ、私はあなた、あなたは私と同一視することから生じるのです。これは支配と服従の論理です。


共同体感覚、社会的関心がアドラー心理学の核となる考えであることは確かです。ただ、個人の統合性を差し引いてしまうと、容易に共同体の罠にはまってしまうことも明らかです。これは政治的な問題であり、まさに生き方の問題だと感じます。