「なりわいをつくる」を読む
耳貸し屋という「なりわい」を始めようと思います。
ググったところ、こういった「なりわい」は、ほぼ見当たりません。
耳貸し屋は、誰かに話したいことがあるひとの話を聴くというサービスを提供します。
話し手が存分に話せるように、うなづき、相づちを返します。聴いた話をまとめ、伝え返します。
アドバイスや情報提供はしません。
聴くことに特化したサービスです。
なんかモヤモヤする、胸のつかえがとれないというとき、ひとに話を聴いてもらえるとこころが晴れてスッキリする、そんな体験を提供したい。
耳貸し屋を始めるのには、大きな初期投資はいりません。
いつでも、どこでも、できます。
最近、「子連れ狼」をあらためて見ていたところ、思いつきました。
乳母車に立てられたのぼりには、
「子貸し、腕貸しつかまつる」、
と書かれています。
オレに貸せるのは耳くらいかなあとふっと思いついたことですが、やってみてもいいかもと感じています。
子連れ狼の拝一刀は大きな宿願を抱き、一子大五郎と共に冥府魔道の刺客道を歩む、元公儀介錯人。柳生一族との確執から幕府の任を解かれ、一殺500両の刺客として、日本国中を旅しています。
刺客の他にも、いろいろ、「なりわい」とする人たちが登場します。
夜鷹や傘張り浪人、主君の墓守り、大道芸人、その他もろもろ。
そういえば、「百姓」とは百のなりわいをもつひとというのがそもそもの語源だと「なりわいをつくる」という本に書いてあります。
村では、農業はもちろん、石垣をつくれる石屋、藍染をする紺屋、大工、陶工、野鍛冶屋など、多様な仕事を各自が受け持っていたし、春だけ養蜂をやる、冬は藁細工をつくる、杜氏になって酒蔵に出稼ぎをする、といった具合に、一人がいくつもの仕事を持つことは当たり前のことだった。(『ナリワイをつくる』、伊藤洋志)
このような複業が当たり前だった日本人の働き方が、戦後、大量生産を是とする工業化のなかで、職業の専業化がすすんでいき、専業化をすすめていくために年功序列、終身雇用が誕生し、健康保険や年金制度が整備されていきました。都市に人口が集中し、職住分離が進行していったのです。
ナリワイとは、「個人レベルではじめられて、自分の時間と健康をマネーと交換するのではなく、やればやるほど頭と体が鍛えられ、技が身につく仕事」(同上)です。
それは、たいそうなビジネスプランによって組み立てられていくものではありません。自分の生活にある、身の回りのちょっとしたことを「ナリワイ」にしようというものです。稼ぎよりも生活の充実が最優先事項です。
「ナリワイ」を考えるためには、私たちは「そもそも」という発想で、ふだんの日常を注意深く観察することが必要です。
そもそも、買った途端に価値が下がっていく住宅を、30年の雇用を条件にローンを組み、購入する価値はほんとうにあるのか?
そもそも、「万が一」に備えて保険に入るよりも、病気にならないように健康に努めることが大事なんではないか?
「そもそも」と考え直すことは、このようなライフプラン上の事柄から日常のささいなことまでライフプラン全体に及びます。その意味で、「ナリワイ」とは、キャリアコンサルタントの用語でいえば「ライフキャリア」に相当するものです。
一つの職業につくことにこだわる必要はない。
それよりも、本当に地に足のついた生活力を鍛えよう。
生活力を鍛えていくなかで、仲間がひろがり、仕事を含んだ生活実感が増えていく。
勇気づけられるメッセージだと思います。