キャリアコンサルタント学習ノート

キャリアコンサルタントの学習記録

「セラピスト」を読む

セラピスト (新潮文庫 さ 53-7)

セラピスト (新潮文庫 さ 53-7)


ロジャーズは、カウンセリングと心理療法を区別しないという立場をとった。
最相さんのこの本を読んでいて、カウンセリングと心理療法をそれぞれどのように位置づけられているのかを気にしながら、一気に読み進めた。
この本にはいくつかの物語的な筋が混線している。ひとつは河合隼雄箱庭療法中井久夫の絵画療法の発端と拡がりという時間軸を追っている。また、別に、作者自身の中井久夫との絵画療法を通じた交流。そして、作者自身の私小説的な話。
前半、GHQの指導のもと民主主義が一挙に流れ込んできたのと同時に、カール・ロジャーズの来談者中心療法の当時の受容の状況が描かれている。これは非常に興味深く読めた。国立大学のほとんどで臨床心理は教育学部に今も置かれていることが多い。それは、カウンセリングが学生相談から受け入れられていったという経緯による。それはウィリアムソンによる臨床カウンセリングだが、これは医者、患者という医学モデルに基づくものである。それに絶望し、心理学をやめようと考えていたところに、友田不二男はロジャーズを知ったというエピソードは興味深い。
ただし、ロジャーズの受容はいくつかの経路から行われており、当時のロジャーズの受け止め方は一様ではなかった。カウンセリングの導入というそのものが政治的な意図をもって行われていた。天皇人間宣言以降、日本人の心の拠り所の喪失を危惧したGHQの配慮。戦後の復興期を経て高度成長へとすすむなか、クローズアップされる精神的な病い。
河合隼雄中井久夫の活動の後景には、こうした社会的状況があった。
ドキュメンタリーとは自身の体験を描くものなのだろうか。最相さんは中井久夫の絵画療法を受け、また、自身、東洋英和の大学院でも学んでいる。

しかし、なぜ、河合隼雄中井久夫なのだろうか?
先ず、単純に、箱庭療法と絵画療法という、イメージを媒介とする療法を通しての最相さんなりの言葉というものに対する思いを感じる。ある思いを抱いていたとして、それを不安と名付けてしまうことにより、削ぎ落とされるものがある。これはある症状に対して診断を下すことと同じである。診断するとは、何より名付けることだ。うつですね、双極性ですね、そのように診断名を下してしまうことは、症状を同定させ、投薬のきっかけを与える。自身の体験とも重ねながら、最相さんは、このような診断、治療に対して切り込もうとしているのではないか?
ただ、一方、このような診断名は、クライアントのアイデンティティを支えることもあり、そのような場合、クライアントが回復を拒絶し、治癒することを遅らせようとすることもあるのだという。そこにはある喪失感が働いている、ということなのだが、とどのつまり、自分が自分でなくなる恐怖をクライアントが抱いてしまうことによるらしい。
河合隼雄中井久夫に共通するのは、クライアントが箱庭を作り、絵を描くのをただ見ている、というその姿勢だ。そこには、医者、患者という知の権力関係は存在しない。
イメージと言葉、セラピーと診断。そして、セラピストと医者。
私は、この本で描かれている限りで、河合隼雄中井久夫の共通項は、ロジャーズとの共通項ではないかと感じた。
それはクライアントへのかかわり方、クライアントとのつながりということではないか?

キャリアコンサルタント見込の立場からは、今回、この本が文庫化されるにあたり、付加された一章は、仕事というものを考え直す題材を与えてくれる。
仕事は自立へ向けての手段であり、証しでもあるだろう。