キャリアコンサルタント学習ノート

キャリアコンサルタントの学習記録

質問が多いことはなぜまずいのか?

立て続けに質問をクライエントに投げかけるのはまずい展開だという自覚はあるのですが、実際、そうなってしまうことがあります。

うまく聴けた、聴けなかったというケースがあって、なんでそんなことが起こるのか、というのを今自分の課題として考えているのですが、うまくいかないカウンセリングは、自分のロープレを振り返っても他の方のロープレを思い起こしても、質問が多い気がします。しかも、QA式の。表現はオープンクエスチョンでも、意味的にはクローズドだとか、クライエントが答えたことを受けずに次の質問を続けるなど、クライエントの何を聴いているのか、さらにそもそもその質問の意図がわからないとか。

なんで、そんなことが起きてしまうのか?


うまくいかないときのカウンセリングの特徴は、名前を忘れたとか、来談目的を聞き洩らしたと言ったように、のっけからミスしている。そのミスがはっきり自覚されていて、落ち着いて、「わたし、なにか聞き洩らしてませんか」というような対処ができれば、まだいいんでしょうが、自覚がなく、時間が経つにつれて、話が進んでいかないことに焦りが出てくると、だんだん取り返しもつかなくなってきます。そうすると無自覚に場を取りつくろうとしてしまう。これ、わりと無自覚にわたしはやってしまいます。つい、ふだん、どういう対人対応をやってるのかが、焦るぶんだけ出てしまうんですね。ごまかしが起きる。質問を立て続けにしてしまうのも、ごまかしのひとつなんじゃなかろうか?

まあ、ごまかしとは言わないまでも、どうしていいかわからないときというのは、身につけた対処法を使ってしまいやすいんだと思います。心理学でヒューリスティックという用語がありますが、なんとかしなきゃという焦りでふだん使ってる対処法をつかってしまうんだろうと思われます。それも、無自覚に。

だから、そういう時には、応答にカウンセラーとしての意図はないんですね。そりゃそうです。無自覚にやってることに意図も何もあるはずはないのです。

あるのは、なんとかこの場をしのぎたいということに尽きます。

質問はその場しのぎの対処法として、飛びつきやすいんでしょうね。そこには、質問すればクライエントがなにか、いっぱいしゃべってくれるんじゃないかという期待、あるいは祈りでしょうか、そんなものがカウンセラーの心の中にある気がします。でも、クライエントはあまりしゃべってくれない。それも当たり前で、カウンセラーの質問はクライエントに向かって投げかけられたものではないからです。クライエントが話したいことではない質問が来たところで、クライエントにはほとんど答えることがないからです。かえってクライエントは困惑するだけで、カウンセラーのことがわからなくなるだけです。

まあ、ときにはそんな質問がクライエントにヒットすることもあります。偶然にも、ぽろっと、クライエントが自分の本音や心情、価値観、信念の片鱗を漏らしてしまうようなことが。

そこを拾えるか、拾えないかもカウンセラーの力量なんだとは思います。ただ、大抵、拾えない。

なぜか?

そんなとき、カウンセラーは次の質問を考えることでいっぱいいっぱいだからです。

そして、いつの間にか、質問も尽き、不自然な間が生じたり、同じような質問を繰り返して、「それ、さっき、話しましたよね」とクライエントに言われてしまったりするのです。


このように考えてくると、質問の多いカウンセリングは、実は、クライエントを置き去りにして、カウンセラーがひとり右往左往しているだけだとわかります。

そして、てんてこ舞いになっているカウンセラーの思い込みも見透かすことができます。

それは、質問することへの思い込み、対話のなかでの沈黙への不安、カウンセラーらしさ。ほかにもいろいろあるかもしれませんが、まとめると、それはカウンセリングでもなんでもないものへの囚われなんだろうな。

それだけ、カウンセリングではないものを受け入れて生活して来ているということなんでしょう。

人柄でカウンセリングができるわけではないし、話しやすいひとだからカウンセラーに向いているわけではないと思う。

カウンセリングをやっていても、むしろ、やるからこそ、今まで生きて来た生活史が出やすいのです。そんなぽろっと出てしまう生活史をどれだけ自覚できているのか?