キャリアカウンセリングと就活支援
- 作者: 伊藤洋志
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 2017/07/06
- メディア: 文庫
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「ナリワイをつくる」は、働くということをラディカルに問い直し、自分らしさを取り戻すことを提起していると思われます。
働くということを考えるとき、雇用を当然の前提としていることが多いけれども、それは果たしてあたりまえのことなのだろうかと問い直すことになります。
そして、それはあたりまえのことではないという結論にたどり着くのですが、その結論が説得力があるとすれば、それは論理的推論によるからではありません。
むしろ、現在の生活実感によるものです。
雇用をあたりまえとして考えることは、言わば、昭和文化の残滓によるという、極めて感傷的気分に浸っていたいという、ただそれだけのこと、なのかもしれません。
昭和文化の中で育ってきた私にも、共働き家庭や転職、フレックスタイム、残業削減、カクシュのハラスメントといったことに対する違和感は腹の底にないわけがないのです。
今の働き方改革で問題視されることがらに対して、どこか、なんでそれが問題とされるのか、納得がいかないところはあります。
ただ、都合のいいことに、「そういう時代だから」というセリフがあって、それでうけいれていると思ってるだけです。
それは、今の新たな生き方、働き方に取り組み始めている20代や30代のひとへの僻みなのかもしれません。
シェアハウスに仲間と暮らし、雇用ではなく、自分ができることをベースに仕事をし、多くを求めず、最低限暮らしが成り立つ稼ぎを得る。時間を切り売りせず、心を病むこともなく、それでいて、日々腕を鍛え上げ、自分の仕事が誰かの役に立っているという実感を持ち、仕事を通して、ひととつながり、仲間の輪を広げている。
このようなライススタイルは、雇用されていることを前提とするライススタイルに対して、その意味や価値を自問自答させます。
30年ローンで建てた家を出て、サラリーマンとして与えられた仕事を日々こなしながら、年収が自分の価値のバロメーター。残業削減のお題目のもと、導入されたテレワークで、帰宅しても仕事から離れられず、いつのまにか、うつ気味に。自分がやったことではないが、会社のものとしてお客さんとのトラブル処理に奔走。仕事しかやってこなかったため、孤独感に襲われ、ギョッとする。
仕事は、時にひとを追い込むことがあります。かつては、むしろ、サラリーマンは、率先して自分を仕事に追い込んでいたものでした。そのモチベーションは、はっきりしていました。今の苦労が将来の役職や年収につながるのだと。
「ナリワイをつくる」を読むと、経済力と生活力は概念として区別する必要があることに気づかされます。
経済力、即ち、生活力。
この発想は、モーレツ社員、3高、バブルなど、ときどきの経済状況に応じていろいろな標語を生んできました。
3cもそうですね。
技術進歩は生活を便利にもしましたが、それよりも、消費を煽るものであったのです。
もちろん、そのおかげで、私たちの今の生活かあることは、きちんと弁えておきたいですね。
その意味で、経済力、即ち、生活力という発想は、私たちの今の生活の土台を作り上げてきたのです。
「ナリワイ」は生活力をそのものとして考えてみようということです。
この発想が今、非常に意味を持つのは、経済力、即ち、生活力とは言えなくなったからではありません。むしろ、経済力は今でも生活力と同じものと考えられています。でなければ、国を挙げての生産性向上がお題目にあがることはありません。
生産性向上は、少子化のいま、重要な国策です。老人も、女性も、ニートも、フリーターも、日本国民一人ひとりが、1円でも多く稼がないと国が立ち行かない。年金制度を始め、様々な福祉政策が破綻してしまう。今の危機感の煽り方は、戦時の国民総動員を思い起こさせます。
「ナリワイ」は、何より生活実践ですが、その意味は、極めて政治的です。それは、民主主義的な運動ではなく、個人一人ひとりに根ざした運動です。デモのような集団行動でも、マスコミのような世論の扇動ではない、ミクロ政治学なのです。それゆえ、ゲリラ行動に近いものなのかもしれません。ただ、その展開は非戦闘的で、平和的なのです。それでいて、「ナリワイ」的生活に取り組むひとが増えるとどうなることでしょう。その破壊力は制度、組織、経済行動、社会構成、文化など、幅広い分野に及ぶでしょう。
間違えてはいけないのは、「ナリワイ」は経済力を否定するものではないということ。そもそも経済力は否定するとかしないとかのものではないので、そりゃそうだという話ですが、議論の展開において、否定することはわかりやすく、「ナリワイ」の読者の立場でも、そう考えたほうが理解はしやすいと思います。ただ、「ナリワイ」はそんな単純なものでは決してありません。むしろ、経済力を程度問題としていることが大事なのです。程度問題にしているとは、経済力を最優先に考えないということです。
年収はそのひとの人間としての価値を表してはいない、という至極当然のことをあらためて認めなくてはいけません。
さて、では、「ナリワイ」は、キャリアコンサルタントにとって、どんな意味を持つのでしょうか?
キャリアカウンセリングで、問題解決がまずい理由
「経験代謝」によるキャリアカウンセリング―自己を見つめ、学びを得る力
- 作者: 立野了嗣
- 出版社/メーカー: 晃洋書房
- 発売日: 2017/07/01
- メディア: 単行本
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キャリアコンサルタント試験で、JCDAを選択する場合、「問題解決」はまずい方の分類に入ります。それには気づいていたのですが、その理由ははっきりわかりませんでした。それが今になって、そういうことかと合点がいく、一文を見つけました。
「人」に関心を寄せ、「経験」を観る。これが、キャリアカウンセリングを進める上での初めの一歩です。p.95
経験代謝では、人と経験一体として問題と考えます。
問題を人から切り離しては考えないのです。
ある経験を問題と考えるのはクライエントそのひとです。別の人が同様の経験をしても問題と、考えないこともあります。
そのため、キャリアカウンセラーは人に焦点をあてます。
「問題解決」の場合、問題をひとから切り離して、一般化してしまうことになります。
人に焦点をあてる経験代謝は、むしろ、その人の個別性に注目します。
たとえば、「今の仕事が面白くなくて、転職を考えています」というクライエントが来ました。
このとき、「そうですか、転職を考えてらっしゃるんですね」と問題を転職として一般化してしまうのか。
「何かあったんですか」と、どんな経験があったのかに焦点をあてるのか。
一般化してしまうことにクライエントがほんとうに話したいことがあるのかどうか。
経験代謝の復習
「経験代謝」によるキャリアカウンセリング―自己を見つめ、学びを得る力
- 作者: 立野了嗣
- 出版社/メーカー: 晃洋書房
- 発売日: 2017/07/01
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経験代謝をあらためて学びなおしたいと思い、立野さんの本を読み始めました。
養成機関で経験代謝を学ばなかった方で、JCDAでの受験をされる方は読んでおいたほうがいいです。また経験代謝を学んだ方にもオススメします。養成講座では触れられない、経験代謝の由来もこの本には書かれているので。
経験代謝は、「経験の再現」、「意味の出現」、「意味の実現」のプロセスだけをなぞるだけではよくつかめません。
経験代謝は、「経験から学ぶ学びの構造」と言われます。
これがキャリアカウンセリングとして、どうやっていけばいいのかは、正直、よくわかりません。
このブログでも、何回か、経験代謝については書きましたが、理解が行き届いていなかったと痛感します。
そもそもの考え方
- 作者: 伊藤洋志
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「そもそも〜」。
これって、けっこう、威力のすごい考え方だなぁと感じます。
「そもそも結婚するべきなんだろうか?」
「そもそも子供は産むべきなんだろうか?」
「そもそも会社に定年まで残るべきなんだろうか?」
「そもそも家は買うべきなんだろうか?」
「そもそも」と身の回りのことを見直していくと、ほとんどのことが否定されてしまう気になってしまいます。
そうして問いつめていくと、私たちのお金の使い先は、便利、効率的、ステイタスといった、副次的な目的で使っていることが多いなぁと思い至ります。
そうすると人間生きていくためには、実はそんなにカネはかからないことに気づきます。
そう、生活力さえあれば。
世の中、たくさんのサービスが提供されている中、じぶんでしかできないことを極力無くし、他のひとにやってもらうことはいくらでもできるのでしょう、そう、お金さえあれば。
すでにわたしたちの身の回りは、お金と交換に提供されるサービスやモノで多くが占められています。
多様なサービスやモノを買う、利用する力を経済力ですが、その経済力がすなわち生活力だと考えることが、そもそもの間違いなのではないか?
「ナリワイをつくる」を読んでいると、そんな気がします。
生活の自給を広げていけば、そのぶん、それほどの経済力は必要ないのではないか?
少なくとも、身体や精神を病んでまで稼ぐ必要はないことは確かです。
一方、今、心身ともに健康で、仕事にも充実を感じているのなら、サラリーマンを続けていることも立派な「ナリワイ」ではないかと思います。
そもそも「ナリワイ」は、サラリーマンの対極にあるわけではないんでしょう。
むしろ、「ナリワイ」という考え方は、そもそもという発想で働くことを考え直すものだと思います。
働くということが本来持っていたと思われる、生活実感であったり、ひととひとをつなぐ機能、学びや成長などをあらためて取り戻すための考え方なのでしょう。
働くということが、多くのひとにとって、雇用という前提に立って考えてしまうことが多いのですが、雇用というフィルターをいったん外して考えてみること。それが今、非常に新鮮で、視界が広がるように思います。
「なりわいをつくる」を読む
耳貸し屋という「なりわい」を始めようと思います。
ググったところ、こういった「なりわい」は、ほぼ見当たりません。
耳貸し屋は、誰かに話したいことがあるひとの話を聴くというサービスを提供します。
話し手が存分に話せるように、うなづき、相づちを返します。聴いた話をまとめ、伝え返します。
アドバイスや情報提供はしません。
聴くことに特化したサービスです。
なんかモヤモヤする、胸のつかえがとれないというとき、ひとに話を聴いてもらえるとこころが晴れてスッキリする、そんな体験を提供したい。
耳貸し屋を始めるのには、大きな初期投資はいりません。
いつでも、どこでも、できます。
最近、「子連れ狼」をあらためて見ていたところ、思いつきました。
乳母車に立てられたのぼりには、
「子貸し、腕貸しつかまつる」、
と書かれています。
オレに貸せるのは耳くらいかなあとふっと思いついたことですが、やってみてもいいかもと感じています。
子連れ狼の拝一刀は大きな宿願を抱き、一子大五郎と共に冥府魔道の刺客道を歩む、元公儀介錯人。柳生一族との確執から幕府の任を解かれ、一殺500両の刺客として、日本国中を旅しています。
刺客の他にも、いろいろ、「なりわい」とする人たちが登場します。
夜鷹や傘張り浪人、主君の墓守り、大道芸人、その他もろもろ。
そういえば、「百姓」とは百のなりわいをもつひとというのがそもそもの語源だと「なりわいをつくる」という本に書いてあります。
村では、農業はもちろん、石垣をつくれる石屋、藍染をする紺屋、大工、陶工、野鍛冶屋など、多様な仕事を各自が受け持っていたし、春だけ養蜂をやる、冬は藁細工をつくる、杜氏になって酒蔵に出稼ぎをする、といった具合に、一人がいくつもの仕事を持つことは当たり前のことだった。(『ナリワイをつくる』、伊藤洋志)
このような複業が当たり前だった日本人の働き方が、戦後、大量生産を是とする工業化のなかで、職業の専業化がすすんでいき、専業化をすすめていくために年功序列、終身雇用が誕生し、健康保険や年金制度が整備されていきました。都市に人口が集中し、職住分離が進行していったのです。
ナリワイとは、「個人レベルではじめられて、自分の時間と健康をマネーと交換するのではなく、やればやるほど頭と体が鍛えられ、技が身につく仕事」(同上)です。
それは、たいそうなビジネスプランによって組み立てられていくものではありません。自分の生活にある、身の回りのちょっとしたことを「ナリワイ」にしようというものです。稼ぎよりも生活の充実が最優先事項です。
「ナリワイ」を考えるためには、私たちは「そもそも」という発想で、ふだんの日常を注意深く観察することが必要です。
そもそも、買った途端に価値が下がっていく住宅を、30年の雇用を条件にローンを組み、購入する価値はほんとうにあるのか?
そもそも、「万が一」に備えて保険に入るよりも、病気にならないように健康に努めることが大事なんではないか?
「そもそも」と考え直すことは、このようなライフプラン上の事柄から日常のささいなことまでライフプラン全体に及びます。その意味で、「ナリワイ」とは、キャリアコンサルタントの用語でいえば「ライフキャリア」に相当するものです。
一つの職業につくことにこだわる必要はない。
それよりも、本当に地に足のついた生活力を鍛えよう。
生活力を鍛えていくなかで、仲間がひろがり、仕事を含んだ生活実感が増えていく。
勇気づけられるメッセージだと思います。
持たない幸福論について
持たない幸福論 働きたくない、家族を作らない、お金に縛られない (幻冬舎文庫)
- 作者: pha
- 出版社/メーカー: 幻冬舎
- 発売日: 2017/08/04
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身の丈に合うというのはどういうことなのでしょうか?
「持たない幸福論」という本を読みながら、著者の無理をしない、物事に執着しない生き方には、正直、違和感を感じます。
ただ、その違和感は、私の方が何かに囚われているからこその感覚ではないかと考えさせられるようなものです。
私も、本来は、日がな寝て過ごしいたいと思う人間です。しかし、著者のように、モノは捨てられないし、毎日満員の通勤電車に揺られながら会社に通い続けています。それが分相応だと思ってきました。
働いて、家族と過ごして、というのをあたりまえとしてきました。
年功序列や終身雇用を信じているわけではありませんが、会社を離れ、著者のような生き方を選択することには、自分にはできないと感じます。
なぜそう感じるのか?
ほんとうに身の丈にあった生き方なのか?
この本を読んでいると、こうしたラディカルな問いを突きつけられている気がします。
こうした問いは、そのまま、キャリアとは何かという問いにもつながるものではないかと思います。
あらためて、生き方、働き方の多様性を感じさせられます。
最良の試験直前対策は逐語録の検討
このブログでも何度か書きましたが、
ロープレだけをひたすら繰り返すよりも、
15分のロープレ一回を逐語録に落とし込み、改善策を検討するほうが飛躍的に実力がつく、と思います。
ロープレをその場だけて終わらせてしまうのは非常にもったいない。
逐語録に落とし、ロープレ全体を振り返ることで、自分の応答のいいところ、悪いところがつかめるようになってきます。
また、面談全体の流れもわかってきます。
逐語にすると一目瞭然ですが、コンサルタントのセリフが多いのは論外。かつ、質問ばかりの応答もまずい。このあたりは、読まなくても、パッと見てわかりますよね。
きちんとクライエントの言葉を伝え返しているか?
クライエントのセリフだけを読んで、相談内容がつかめるかどうか?
最初はうまくクライエントの話を促せていたのに、流れが変わったのはどこからなのか?
クライエントの心が離れていったのは、何がきっかけだったのか?
具体的に書いていけばきりがありませんが、
要はうまくいったのか、いっていないのか?
それはなぜなのかを逐語録を通して突き詰めていくことが大事です。
そして、作った逐語録は、自分にとっては最良の、完全カスタマイズの教科書です。
そこに、あなたが面談をやっていくうえで必要なことがすべて書かれています。
試験直前の今だからこそ、取り組んでみる価値はありますよ。