試験対策の状況
カウンセリングの実際―“心理療法”コレクション〈2〉 (岩波現代文庫)
- 作者: 河合隼雄,河合俊雄
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 2009/07/16
- メディア: 文庫
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今週木曜日は、実技論述対策の最終日。ところが、仕事上の突発的対応のため、欠席。帰宅すると、学科対策の教材が届いていたが、授業のDVDは明日以降、小分け発送されるとのこと。また、メールで実技面接対策の事前準備に、YouTubeで動画を見ておくようにとの連絡がありました。明日は、学科の問題を解く、のと動画を見ることにします。
先週、スカイプ指導いただいてから自分なりに面談プロセスをずっと考えています。特に、クライエント中心療法が頭から離れない。スカイプ指導いただいた先生のロープレを再三聞き返していると、自分と先生の差はクライエントへの基本的態度にあると痛烈に感じる。ほんとうに心を傾けるとはどういうことか。先生のロープレを聴いていると、最初、どう聴いてもクライエントの話の矛盾が気になって仕方がなかったが、カウンセラー役の先生のかかわり方に焦点を当てると、決してクライエントの話を否定しないし、クライエントに対して疑問も発しない。むしろ、クライエントがわからないと言っていることに付き従っていることに気づきました。クライエントに寄り添うということは、こういうことを言うのかもしれない。
聴くということ自体がクライエントを受容すること、そのために、カウンセラーは二心をもつことなく、ただクライエントに向き合い、クライエントの理解に努める。伝え返しは、カウンセラーにとっては、クライエントの話を理解しているか確認しようとする行為である一方、それによってカウンセラーが自分を理解しようとしているということを表すという二重の意図がある。さらに、伝え返しにより、クライエントが自分の話を理解しようとしているひとを前に、さらに自己開示を安心して進められると同時に、カウンセラーの言葉が自己探索のトリガーになることが期待できる技法です。
伝え返しは、クライエント中心療法の中心的な技法ではあるが、この技法は基本的態度と一体のものだと考えられる。
スカイプ先生のロープレには、カウンセラーの価値観も、先入観も、クライエントの話を茶化そうとする態度も、いっさい入り込む余地がない。ただ、クライエントに対する違和感は現れている。そして、この違和感がカウンセリングを進める力になっていると思われる。
で、河合隼雄さんの本を開くと、
「共感的理解というのは、その人のされたことと、私のしたことがよく似ていて共感できるのではなくて、その人のしたことと、私の体験とは相当違うのだが、あるいは、違うが故に、その違う体験を共通に感じ合おうとしてこそ、二人は深い理解に至るといってよいかもしれません」
共感は、一人ひとり違うのだという前提があって成り立つ人間関係だというのは、平木さんの自他尊重にも見られるものです。
ただ、共感が成り立つ前提は、自他の違いだけではありません。今まで、当たり前過ぎて見落としていたのかもしれないと思うのですが、カウンセラーがクライエントへ心を向けていなければ、共感は起こりません。それはロジャーズの言葉では、無条件の肯定的関心であり、端的に受容と呼ばれる態度でしょう。
言うまでもなく、カウンセラーとクライエントは別の人間であり、そこに上下関係はありません。カウンセラーはクライエントとの違いに違和感を持ちながら、違いを尊重し、クライエントをありのまま受け止め、その人の話すことを含め、在りようのすべてに関心を向けている。クライエントに感じる違和感をことさらに強調して話題にすることはないが、それを隠す必要はないのですね。隠すとはカウンセラー自身に不誠実な態度をとることになります。違和感は違和感としてはっきりとカウンセラーは認識する必要があります。違和感を保持しつつ、カウンセラーはクライエントの理解に努める。そうしたカウンセラーの態度によって共感が起こり、クライエントの自己開示と自己探索が促されていく。
過去のロープレを振り返ると、どうも、ロープレだし、という考えが確かにあったなあ、と思い起こされ、顔が熱くなります。
字面での理解ではカウンセリングはできませんね。というか、字面での理解は表面的に過ぎないので、結局、役に立ちません。体験に裏打ちされた理解であり、かつ、血肉化されてこそ、その理解はホンモノなのでしょう。
試験の実技でもこれは試験だからとタカをくくらずに、むしろ、実際のカウンセリングだと思って臨まないといけないですね。
実技対策 論述編
全4回の論述対策の今日は3回目。
前回同様、過去問をグループで解く。
基本、考え方は面談といっしょということなのだが、解答としてどう表現したら良いのかがなかなかつかめません。
要は、逐語に根拠をもとめながら自分の考えを記述していけば良いのだと思いますが、これが答えだというのが感覚的にもわかりづらいのですね。
過去問にも模範回答は示されていないし、試験の回数も少ないので、傾向から導き出すことも難しいというのはわかるけど。
スカイプでロープレ
昨日、受験申込み完了。当初どおり、JCDAで申込みました。
いよいよ、試験対策モードに入りました。
この土日はスカイプで、ロープレ指導を受けました。
JCDAで受けても経験代謝にこだわる必要はないこと、
来談目的から面談中外れないこと、
一致と自己一致は違うこと、
クライエントに集中すること、など、いくつか、目からウロコの重要な指摘をいただきました。
アレもやらないと、コレもやらないと、というよりはクライエント中心療法でいう受容、共感、一致の心がけを大事にするというのは今の私が1番できていないことだと気づきました。というか、受容、共感、一致を避けてきたような気がする。知ってはいるけど、あまり、ロープレでもどうしたら受容なのかがわからないので、考えないでいたんですね。そこを今回、指導していただいたのは大きい。
また、傾聴ができていないと、15分は持たないということがわかりました。河合隼雄先生のいう「人を聴く」姿勢でないと、単にクライエントの話を聞くだけでは応答が続かないんですね。このひとはどういう人なんだろうと問い続ける態度で臨まないと。
こころというまんじゅう
東京未来大学の心理療法基礎のスクーリングで「こころというまんじゅう」を教わりました。これはカウンセラーがクライエントと向き合う態度を簡潔に表現したものです。
皮に包まれた餡に直接触れることはできないし、無理に触ろうとすると皮を割かなくてはならない。
東山先生の「プロカウンセラーの聴く技術」は、永く読み継がれてきた傾聴についての本ですが、そこに「助平ごころ」「のぞき」という言葉から、「まんじゅう」を思い出しました。プロカウンセラーは聞き出そうとしてはいけないということを「助平ごころ」「のぞき」という表現で巧みに説明されています。
「助平ごころ」とは、クライエントが触れてほしくない、話すのに抵抗があるという気持ちをおざなりにして、カウンセラーが自身の興味本位で対話をすすめてしまうことをさしたものですが、上記のまんじゅうでいえば、直接餡に触ろうとすることだと思います。
では、「助平ごころ」という表現で東山先生が指摘しているのは何なのでしょう?
「質問が多い」と私は指摘されたことがあります。「そのため、話したくなくなった」そうです。質問も技法の一つとして大事ではあるのですが、その使い方には注意が必要だと思いました。
質問の意図としてはクライエントに自問自答を促す、カウンセラーの理解をクライエントに確認する、また、カウンセラーが理解していないところを教えてもらう、対話の流れを変えるなど、いろいろな効果があります。ただ、質問していいタイミングがあるのではないかと思います。
クライエントが話す流れを崩すことなく、適切なタイミングで質問をする、ということが大切なのでしょう。
質問が多いというのは、カウンセラーが自分が聞きたいことを聞くということになり、クライエントの気持ちを無視して、興味本位に話を引き出そうとしていることなのでしょう。「助平ごころ」が働いているということなのだと思います。
クライエントが話したいと思っていることを十分に話してもらうには、むしろ、質問できることはかぎられていると考えておいた方が良いのかもしれません。クライエントが十分に話していない間は、話を促す質問でなければしてはいけないのでしょう。
質問にはオープンクエスチョン、クローズドクエスチョンがありますが、これらはクライエントが答える情報量や答え方で区別されますが、話を促すという点では、どちらに優劣があるのでしょう?
クライエントが自由に答えることができるという点ではオープンクエスチョンの方が話を促すように思われますが、漠とした質問では逆に答え方に困ることもあります。何を答えていいのか迷う質問が多いのもオープンクエスチョンの方です。
クローズドクエスチョンは選択肢を選ぶ答え方なので、クライエントには答えやすい反面、それ以上話が展開していかない恐れがあります。ただし、選択できないという場合もあります。
話を促すという点では、確かにオープンクエスチョンを使うことが多い気がしますが、それ以上に、カウンセラーの質問の意図が問われるのです。質問はクライエントへの向き合う態度を他の技法よりもハッキリと伝えてしまうことを肝に銘じておかなくてはいけません。
問題解決と共感
昨年受講したカウンセリング演習のレジュメを読み返す。東京未来大学のスクーリングで4日間、12コマの授業。内容はロジャーズ。教科書は「カウンセリングを学ぶ」。
読み返して、カウンセリングについてはすでに多くのことを学んでいたことをあらためて思い出した。
この授業があったから、キャリアコンサルタントを取ろうと考えたのだ。
この授業で講師からいただいたフィードバックのメモは宝だ。
そのメモに「相談者のペースを乱さない(つきそうような)」というコメントがある。
このときのロールプレイは二十分。
その時間で、確かに主訴の把握、課題の明確化、今後の治療方針の共有を行い、時間内でクローズした。
それが、カウンセリングへの自信につながっている。
だが、応用実習でのロールプレイと比較すると、そこには雲泥の差がある気がする。
スクーリングでのレジュメを読み返しながら、はたとその違いがなんなのかのヒントを見つけた。
通常の問題解決とカウンセリングを比較した図。
通常の問題解決では、事実の整理から原因を探り、その解消に向けてのアクションと進める。これは、ふだんやってることでもある。一方、カウンセリングがそれとは違うのは、感情や気持ちに焦点をあてることで、クライエントが自ら問題解決に取り組めるようになることを目指す。
また、質問について、「カウンセラーの興味主導にならない」「事実を探ることに偏りすぎない」とある。
応用実習では、問題解決に偏重していたと思う。
カウンセリング演習では出来ていたことが応用実習では出来ていない。
カウンセリングは共感することだけではないし、共感に支えられ問題解決をカウンセラーとクライエントが共に進めていくものだが、共感に支えられないカウンセリングはクライエントにとって受け入れ難いものとなり、問題解決の進まないカウンセリングは意味がない。
そうだとすると、カウンセリング演習でのロールプレイでは何が出来ていたのか、そのイメージを自分の中に甦らせることがカウンセリングに対しての自己効力感を回復させるのに役立つと思う。
確かに、あの時には、クライエントとも通じ合うものを感じた。息が合う、そんな時間があった。
応用実習でも、それに近いロールプレイは何回かあった。
そうした場面では、確かに、問題解決と共感とのバランスが取れていたと思うし、それ以上に私はクライエント役へ意識を集中させていた気がする。
このように書くと、どうも自分が感覚だけに頼っている気がしてきた。
意図をもったかかわりをそもそもしていないのではないか? だとすると、クライエント次第で私のカウンセリングはうまくいったりいかなかったりするということになる。
本当に心を傾けるとはどういうことか?
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「キャリアカウンセリングとメンタル」を読み返して、刺さった言葉。
本当に心を傾けるとはどういうことか?
私の現在の課題は、この問いに収斂され、包括されるように感じる。
この問いの前では謙虚にならざるをえない。
著者の松尾氏はとても謙虚な方であり、その人柄はこの本に如実に表れている。
フリーライターからキャリアカウンセラーに転身され、クライエントと向き合う中で精神疾患を持つ方たちの支援へと進まれた。その途上で精神保健福祉士を取得され、今もブリーフセラピーやソリューションフォーカスなど自己研鑽を積まれている。
本当に心を傾けるとはどういうことか?
カウンセラーはかかわり行動や傾聴を体得する必要があることは言うまでもないが、なぜ体得する必要があるのか、その理由は上記の問いにある。だが、かかわり行動や傾聴を体得することでこの問いに応えたことにはならない。この問いを自ら問い続けていくものなのだろう。つまり、この問いは実践として応え続けていく問いなのだろう。