セルフモニタリングとカウンセリングの訓練
認知行動療法で用いられるセルフモニタリングは、自身の日常行動や思考、感情を意識的に観察し記録することてある。どんなときにストレスを感じ、そのときどんなことが思い浮かぶのが、であったり、あるひとの言葉や態度に対し自分はどんな反応をするのか、といったことを意識化するための手法である。
セルフモニタリングを通じて、自分が知らない自分を知ることが期待できる。ジョハリの窓でいう未知の自己を知るための方略とも言える。
カウンセラーはクライアントに対して意図的なかかわりが求められるが、そのためにはカウンセラーが自身の態度や行動、感情の動きを自覚しておく必要がある。自身の傾向、クセを知るだけでなく、それが対人場面でどういう結果を引き起こしやすいのか、知っておかなくてはいけない。
セルフモニタリングはその訓練としても取り入れることができるだろう。
カウンセリングでのかかわり
カウンセリングはクライアントの自己成長、自己実現を目的とする。なので、カウンセラーのクライアントへのかかわり方もその目的に適うものである。この目的を持つということがカウンセラーのかかわり方が意図的であるという意味である。つまりカウンセラーの行動はクライアントの自己成長、自己実現を目的に置き、それを意図してクライアントにかかわる。
ところで、ひとはそのひと自身として独自の世界観を持っている。アドラーの言葉を借りれば、個人はそのひと自身の経験によって独自のライフスタイルを持っている。カウンセラーはクライアントの独自の世界を受け止め、感じとり、理解を示す。また、ロジャーズによれば、カウンセラーのそのような態度をクライアントもまた感じとることで、両者に心理的接触が現れる。
共感とは、カウンセラー、クライアントそれぞれの心理的な体験過程が、カウンセリングにおいて相互に折衝し合うことだと考えられる。
カウンセラーも、クライアントも、相手の内的な心的過程に直接触れることはできない。そのため、言葉、非言語行動を手がかりとして、相手の心的過程をトレースしようとする。
カウンセリングが目指すのは、クライアントの自己成長、自己実現なので焦点はクライアントの主訴に当てられる。だが、心理的な体験過程では、クライアントもまたカウンセラーに応答しようとする。カウンセラーはクライアントの思考や感情に焦点をあてたかかわり方をして、クライアントが自身の思考や認知に焦点を当てられるよう勇気付けていこうとする。それがうまくいけば、クライアントの自己への気づきから自己理解が進んでいくことが期待できる。だが、カウンセリングではクライアントの応答がカウンセラーの期待に応えようとすることもある。
カウンセラーは自身の好奇心や理解のために質問すべきではないし、クライアントが最初に提示する主訴を鵜呑みにしてはいけない。また、カウンセラーはクライアントに巻き込まれてしまってもいけない。
カウンセラーはカウンセリングに臨もうとするとき、自分自身のライフスタイルを把握しておく必要がある。カウンセラーは先ず自分の自己理解をする必要がある。とはいえ、それは自分の独自の世界観を確立することではない。むしろ、自身のライフスタイルを絶えず更新し続ける意志を持つことだ。そのさなかにあって、自分は変わり続けるという自覚を持っていること、それを自然体として受け止めている状態、それが自己一致なのではないだろうか。
経験代謝について
JCDA関連の養成機関のため、キャリアカウンセリングの基礎として経験代謝について教えられる。
基礎実習でも、経験代謝については触れられていたが、応用実習では演習を通じて体感的に身につけていくことが期待される。
カウンセラーによるかかわりによって、クライアントは経験の再現から意味を見出し、その意味の実現に向けて行動していく。
この意味は自己概念と言い換えられる。クライアントは、経験の再現によって自己理解を深め、自己概念を見いだす。
このプロセスじたいは、ロジャーズの自己一致である。ロジャーズは、クライアントはカウンセリングによって、自己不一致の状態から自己一致の状態へ変化すると述べている。そのための条件としては、自己一致していること、クライアントを受容すること、共感的理解をとることをカウンセラーに求め、さらにそのようなカウンセラーの態度がクライアントに伝わっている必要がある。
ロジャーズのいうカウンセリングの条件は、経験代謝にもカウンセラーに求められる態度である。また、経験代謝は、自己概念の成長を目指すことを目的としていて、そこにもロジャーズの考えに近い。
ところで、ここで言われている経験は、ごく日常の出来事であってもよい。どんな出来事であろうと、出来事じたいに意味があるのではない。大事なのは、その出来事をクライアントがどのようにとらえているか、クライアントが出来事に対して抱く考えや気持ちを含めて、それが経験なのだから。
認めたくない事実、なかったことにしたいこと、目を背けたくなること、そのような出来事に目を向けることは不安を喚起することにもつながる。だが、そうした出来事を直視することから学びが生まれる。とはいえ、直視するには相応のエネルギーが必要だろう。不都合な事態にあっても、それを自らなんとかしようとする場合、ひとは当事者意識をもっている。逆にいえば、当事者意識がないと、その出来事は自分が対処する出来事にはならない。他人事である。経験代謝は、他人事としてとらえている出来事に対して、当事者意識をもって取り組むことを促す。他人事と自分事を分けるのは、当事者意識の強さではないかと思われる。それを強めることが経験代謝に期待されることだと思われる。
勝手にいろいろと思考を巡らせたが、経験代謝はJCDAが提唱しているものである。この点は決定的に重要だと思われる。つまり、これはキャリアカウンセリングの理論であって、カウンセリングの理論ではない。キャリアカウンセリングの実践のために考えられたものであり、キャリアカウンセリングにはカウンセリングや心理療法とは異なる独自の版図がある、ということになる。ただし、経験代謝も、実践のなかで整理されてきたものである。経験の再現から意味の出現、意味の実現というプロセスを辿ることができるのであれば、どんな技法を使ってもよい。エンプティチェアでも、ミラクルクエスチョンでも、コラム法でも、何を使おうが制限はない。ただ、経験代謝のサイクルを意図し、クライアントの自己概念の成長が促されるかどうか、そこが問題。
繰り返される失敗
ミスが起きると、同じようなミスが立て続けて発覚することがある。
それを冷静に考えてみると、どうやら、自分の行動、あるいは認知に起因しているのではないだろうかと気づく。
ミスが続いているときは、さすがにへこむ。うんざりする。そういう心持ちの状態で、ミスを直視することは、かなりハードな作業になる。上司からも厳しい言葉を浴びせられるし、周囲の目も冷たく感じられる。他にやらないといけないことにも手がつけられない。ミスに囚われた状態に身動きが取れなくなる。硬直状態に陥ってしまう。
だが、しばらくすると、今度は、いかに今の状況から抜け出せないかとそればかり考える。あるいは、空想の世界に逃げ込んで、ミスから離れようとするのである。
ただ、歳食っていくと、こういう場合、どういう成り行きになるのかもわかっている。
会社の仕事は組織で成り立っているので、ミスのすべての責任が自分にあるとも考えない。が、孤立無援という状況は、さすがに苦しい。
モチベーションが下がると、ポテンシャルもさがる。これは自分だけでなく、これまで多くの人を観察した結果でもある。
まあ、でも、ミスはミスとして、続いたことはそれとして誠実に対処していくしか、結局、ないんだよな。
ミスしようとしてしたわけではないし、だいたい、チェックを怠った連中も一連托生だくらいに思っていていい。
ミスに責任を感じる必要はない。
やったことに対しては責任持って取り組む。
会社に対して申し訳ないと感じることは微塵もない。
と、いろいろな雑念が思い浮かび、交錯するのだが、これらは雑念以上の何物でもないということだ。だが、雑念にフォーカスしてしまうと、その思いが肥大し、それに囚われてしまうのだ。
むしろ、冷静に、客観的な心持ちを維持したい。それには雑念は雑念として捨てることが大事だ。パニック状態になればなるほど、雑念に囚われてしまう。それでも心に思い浮かんだことは、雑念と名付けて、捨てる。
ミスが繰り返されるのであれば、過去と現在のミスを比較してみる。そこに共通点がないだろうか?
そこに、自分が知らない自分が隠れていることがよくある。
あっ、そういえば、前のときも時間に追われていたな、とか、他の人にお願いできず、自分で抱え込んでたな、とか、自分の推測だけで処理してたな、あるいは、どっちもモチベーション最悪のなかで仕事やってたな、とか。
自分の行動のクセ、思考のクセが見つけられないだろうか?
キャリアとは
生きざま。
現在から未来へ向かっての個人の生きざま。
これがキャリア。
過去に縛られることなく、むしろ、過去は自分のリソースの積み上げ。
自分なりにしっくりくる表現にすると、これ。